
<写真>コリーナさん一家
左から二番目が幼いころのレスウィーさん
「夢を叶えるために、貧しさは障害ではありません」
決まり文句のように聞こえますが、これは私自身が生きるためにしてきた決断の物語であり、同時に、自分の夢を叶えようとしている人たちにも言えることだと思います。
私は4人兄弟の長女として生まれました。私の家庭は、父が三輪バイクの運転手として働いているだけの貧しいものでした。父の収入は、家族が生活をしていくためには十分ではなかったので、長女である私は、生活費のために働かなければなりませんでした。
幼いころから、私は人生の苦難にさらされていたと思います。私は母の作ったキャンディーを街で売りました。学校の教材費のために、私はそうしてお金を稼いでいました。私はクラスメイトが遊んでいる間も、キャンディーを売らなければなりませんでした。また、週末は木を切って薪を作る仕事もしました。父は血圧が高く、通常の仕事で働くことができなかった上に、高血圧発作で入院し、ほぼ1年間働くことができませんでした。ですから、私はできる限りのあらゆる方法で、家族を助けていかなければいけませんでした。誰かを責めることはできませんでした。
あるとき、私たちは家で飼っているアヒルの餌にするため、近くのレストランに残り物をもらいに行っていました。食べ残しのマンゴーをみつけたときは、アヒルには食べさせず、自分たちで食べていました。小さい頃、マンゴーのような美味しいものを食べられることはめったになかったので、それが新鮮かどうか、清潔かどうかなど気にはなりませんでした。
また、学校のクリスマスパーティーでは、私はプレゼントをもらうだけで、クラスメイトにあげることができませんでした。私はプレゼントをもらえた喜びと、クラスメイトから哀れみを受ける悲しみの間で、何とも言えない気持ちになりました。
このような苦しい幼少期を過ごし、私は家族の生活を豊かにすることを決心しました。家族の収入だけでは、卒業まで勉強することができないことを思い知ったからです。

私は小学校で一生懸命勉強し、一番の成績になることができました。そして私の叔母は私が高等学校に入学するための試験手数料を支払ってくれたのです。その高校で、プルメリアの濱野さんが私を見つけてくれて、私は彼の最初の奨学生となりました。
誰もが当たり前に読み書きができるようになるわけではありません。教育とは、そのためのチャンスのひとつであり、また、決して無駄にしてはならないものだと、私は強く言いたいのです。
高校入学後は、受け取った奨学金を私たちの家族の生活費の一部に充てることができました。しかしこれまで通り、私は母が作ったキャンディーを売りました。また、クラスメイトの手伝いも始めました。その子は体が不自由でしたが、お金持ちの家の子でした。私はその子の学校活動を助けることで、食事などのサポートを受けていました。私はこのようにして、家計を助け、同時に勉強していました。
私は高校入学と同時にプルメリアの奨学生になり、中学教育学士(高校教師課程)の数学専攻に入学しました。父の収入は、家族の生活費をまかなうだけで精一杯でしたし、私には病弱な弟たちがいました。毎月の奨学金の一部を医療保険の支払いに充てることができたので、大きな助けとなりました。私はプルメリアから受け取った毎月の奨学金とは別に、家計の足しになるよう、いろいろなところで家庭教師をしていました。
このような経験を通して、私はプルメリアの奨学生であることがどれだけ恵まれているのか、を強く感じることができました。プルメリアが私に希望を与え、私の苦難を軽減し、成功への道を開いてくれたのです。こうして私は、成績優秀生として大学を卒業することができました。
プルメリアは私を経済的に助けてくれただけでなく、私をひとりの人として成長させてくれました。日本人によるボランティアに参加することでコミュニケーションスキルも上がりましたし、日本人の文化や言葉も学ぶことができたのです。
私の人生は変わりました。プルメリアという、広い世界を見せてくれた存在と、出会うことができたからです。経済的支援と、新しい価値観を得ることができなければ、私は貧しい家庭の生まれであることを嘆くばかりで、卒業することもできなかったでしょう。

<写真>クリスマスフェスティバル出演時
レスウィーさん(左) プルメリア代表 濱野さん(右)
大学卒業直後、私は教員免許を取り、私立学校の教員になりました。そしてそのころ、私は日本で開かれたエルセラーン1%クラブのクリスマスフェスティバルに招待してもらえたのです。このことは大変に名誉なことであり、同時に、「日本に行く」という私の夢のひとつも実現しました。そして何より、エルセラーンメンバーの皆さんが私を歓迎してくださったことに、とても驚きました。
日本から戻ったあと、プルメリアは私に、さらに高い教育を目指すために、再度奨学金支援をしてくれました。それは、ロースクール(法科大学院)での勉強、つまり弁護士への道でした。
そして私は今、マンダウエ市役所にある、市の法律事務所で弁護士として働いています。市の法的問題を解決する業務に、日々携わっています。家族と、支援者の皆さん、多くの素晴らしいご縁がなければ、今の私はいません。ひとりの貧しい少女が、多くの人々の助けによって、世界と向き合い、人生を変えることができたのです。
